五十稲荷神社
社伝によると徳川時代既にこの地に鎮座し、京都伏見稲荷神社より御霊を奉戴、安産守護神として厚く崇敬された。正徳年間(1711~16)戸田長門守の屋敷となったが、戸田家ではこの地の鎮守として奉祀し、領地足利市にある「稲荷大神」(現雪輪稲荷神社)をも合祀して「栄寿稲荷大明神」となった。
戸田家は足利領で五・十の日に織り物市を開く慣わしがあり、江戸邸に於てもその繁栄を祈願する為に月次の祭事を五・十の日に執り行い、諸人の参詣を許した。毎月五の日と十の日を縁日としたので五十稲荷の名が生まれた。安産を願う妊婦が近県からも集まり、毎月の縁日、特に夏の夜の混雑ぶりは今の新宿にも匹敵するといわれ、『風俗画報増刊東京名所図絵 神田区之部』(明治32年)の中に、当時隣にあった映画館『南明館』とともに描かれている。
漫才の内海桂子師匠が、幼い頃に神社近くの蕎麦屋「更科」に丁稚奉公していた時に、『五十様の縁日』を楽しみにしていたという。