歴史
町会の設立は昭和28年11月で大震災後の区画整理までは「表神保町」と呼ばれていた地域である。弘化年間の絵図によると、この辺りは戸田長門守と内藤駿河守の屋敷が隣り合っており、戸田長門守の横の道を南東に向かうと「護持院ヶ原二番火除地」に突き当たる。
町内には通称『五十稲荷神社』がある。正式には「栄寿稲荷神社」といい、その沿革は正徳年間(1711~16)山城国(京都府)伏見稲荷の分霊を祀ったもので、安産の稲荷としてその名は非常に高かった。その後、その土地が戸田長門守の屋敷となったが、戸田家ではそのまま祀っており明治維新後邸宅が取り払われて町家となったが「栄寿稲荷神社」はそのまま残された。
森さん(明治43年生)が語る関東大震災
地震が起きたときは学校にいる時間で、地下の下足場をうろうろしていたら、先生に「そんなところにいないで早く逃げろ」と言われて、運動靴のまま靖国神社に逃げました。九段の坂の上から神保町の方を見ると、火事で大変な煙でした。神社の境内で、同じく避難してきた西神田の叔母に出会うことができ、荷馬車に乗せられて避難しました。
揺れもようやく収まった頃、神田の様子を見に行きました。我が家に着いてみると、家は丸焼け。商売が瀬戸物屋でしたが、全部壊れてかけらになった瀬戸物が元の倍くらいの嵩になっていました。そこに、両親が竹橋の近衛連隊に避難していることを知らせる札があり、一週間ぶりに両親に会うことができたのです。配給は今の一橋中学の所でやっていました。幸い倉庫に藁で包んで置いてあった瀬戸物は無事だったので、両親が瓦礫の上にそれらを並べたところ、配給米をもらいにきた人が買っていってくれました。それでようやく生活に必要なお金が手に入ったのです。夏のことで、何より水がないと困りますが、その当時、小川町にあった「おおときわ」という料理屋さんに滝があったので、その水を使わせてもらいました。
震災でも戦争でも何回も怖い目に遭いましたが、地震の時など何も持たずに身一つで安全なところに逃げて、無一文になっても身体が無事なら、その後一生懸命働けばどうにかできるということを、身をもって体験しました。